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【天平の美少年】阿修羅像1290年の旅。光明皇后が母に捧げた「祈りの形」とは? 初心者でもわかる阿修羅像の歴史!興福寺と東大寺の意外な関係をスッキリ解説します。
興福寺の国宝・阿修羅像(あしゅらぞう)について、暦上(歴史上の日付・時代名)の事実を、時系列でわかりやすく説明しますね!
難しい言葉は避けて、まるでお話のようにお伝えします♪
1. 生まれ(制作された年)天平6年(734年)に完成!
これが一番大事な「誕生日」です。
奈良時代(天平時代)のちょうど真ん中ごろ。
聖武天皇の皇后・光明皇后(こうみょうこうごう)が、亡くなったお母さん(橘三千代)の 1周忌法要のために、興福寺の西金堂(にしこんどう)を建てることを決めました。
(発願したのは前年の天平5年=733年)
そのお堂の本尊(釈迦如来像)のまわりに、仏様を守る「八部衆(はちぶしゅう)」という神様たちの像を作ったんです。
阿修羅像はその中の1体。全部で8体+釈迦の弟子10体(現存6体)がセットで作られました。
2. どんな像?
素材:脱活乾漆造(だっかつかんしつぞう)という、当時最先端の技法(木の型に漆を塗って固め、木を抜き出す方法)。
高さ:153.4cm(ちょうど大人の胸くらい)。
特徴:三面六臂(さんめんろっぴ)=顔が3つ、腕が6本!
でも普通の怒りん坊の阿修羅とは違って、少年みたいな優しい顔で、ちょっと眉を寄せた静かな表情。戦いの神なのに「懺悔(さんげ)して仏様に帰依した姿」を表しています(お経『金光明最勝王経』に基づく)。
当時の色:体は鮮やかな赤、服は緑や青の美しい文様(今は少し色あせています)。
3. その後の大事件(修理・移動・指定の年表)
平安時代~鎌倉時代(具体的な修理記録:延暦10年=791年、正応元年=1288年頃)
何度もお堂が火事で焼けましたが、阿修羅像は奇跡的に無事!
明治時代(1897年頃)
西金堂から中金堂へ移動。修理のとき、右の合掌する腕の肘から先を新しく作り直しました(今もその部分は後補)。
復興新築された現在の中金堂(右側:五重塔復興工事中)
1902年(明治35年)
八部衆像全体が「国宝」に指定されました(当時の古社寺保存法)。
1951年6月9日
戦後、重要文化財から正式に「国宝」へ再指定(今もこの指定が有効)。
1981~1985年
国宝修理所で模造(レプリカ)を作りました。このとき最新調査で「元の色はこんなに鮮やかだった!」と判明。
現代(2000年代)
九州国立博物館などのチームがX線CTスキャンで調べ、「合掌する腕は最初からこの形だった」と証明!(明治の修理で少し角度が変わっていただけ)。
4. 最近のビッグイベント2009年3月31日~6月7日
興福寺創建1300年記念で、東京国立博物館で「国宝 阿修羅展」開催!
阿修羅像が112年ぶりにお堂(仮の講堂)に安置された特別展示も。世界中から人が集まりました。
現在(2026年時点)
興福寺の国宝館にずっと公開中。
ガラスケース越しに間近で見られます(常設展示)。
西金堂はもうないので、新しくなった国宝館が「家」になっています。
一言まとめ阿修羅像は天平6年(734年)に生まれて以来、約1290年間、火事や戦争をくぐり抜け、明治・現代の科学調査で「本当の姿」が明らかになった、超長寿の国宝です。
光明皇后の「お母さんを想う気持ち」が込められた、優しい顔立ちが最大の魅力♪興福寺に行ったら、ぜひ国宝館でじっくり見てみてください。3つの顔がそれぞれ微妙に違う表情をしているのが、すごく感動しますよ! もっと知りたい部分(色のこととか、八部衆の他の像とか)があったら、いつでも聞いてね。
東大寺の大仏様
でもね、なぜ東大寺では供養しなかったの?
光明皇后が母・橘三千代の1周忌供養を興福寺西金堂でやった理由は、2つの大事な歴史的事実が重なってるよ。
これまでの阿修羅像の話とピッタリつながるよ♪
1. 時期(暦上)の理由:東大寺はまだ「大寺」じゃなかった!
(これが一番大きい)母の死:天平5年(733年)1月11日。
西金堂発願&供養:天平6年(734年)正月11日(ちょうど1周忌)。
このとき、東大寺はまだ「金鐘寺(こんしょうじ)」という小さな寺だったんだ!
東大寺の始まり:神亀5年(728年)頃に聖武天皇が皇太子(基親王)の冥福を祈って建てた小さな山房が起源。
本格的な「東大寺」化:天平15年(743年)に聖武天皇が大仏造立詔を出して大工事スタート!
(大仏完成は天平21年=749年、開眼供養は天平勝宝4年=752年)。
つまり、734年の時点では東大寺はまだ「大仏の寺」になる前で、規模も小さく、国家の中心寺院じゃなかった。
供養するのに十分な堂も仏像も揃ってなかったんだよ。
(東大寺が「全国の総本山」になるのは743年以降!)
2. 氏寺(うじでら)の理由:興福寺が「藤原家のプライベート寺院」だった興福寺は藤原氏の氏寺(創建669年=藤原鎌足の山階寺が起源)。
光明皇后の本名は安宿媛(藤原不比等の娘!)。
母・橘三千代は不比等と再婚して光明を生んだ人。つまり完全に藤原家の家族供養。
こういう一族的・個人的な菩提供養は、氏寺(自分の一族の寺)でやるのが当時の常識。
国家の象徴である東大寺(後の大仏寺)は、もっと公的な国家鎮護のためのものだったんだ。
光明皇后は病に伏せながらも「母の冥福を祈る」ために、わざわざ興福寺に西金堂を新築して阿修羅像たちを作らせた(『興福寺縁起』や『続日本紀』に記録あり)。
これは「藤原家の心のふるさと」でやるのが自然だったんだよ♪あとでつながる面白い話光明皇后は後で東大寺を全力支援した!(大仏造立の勧め、国分寺建立など)。
でも母の供養だけは「自分の家の寺」でやりたかったんだね。
(聖武天皇夫妻は夫婦で仏教を支えたけど、このときは「家族 vs 国家」の違いが出た)
一言まとめ東大寺では供養しなかった理由は:
① 734年時点で東大寺はまだ小さかった(大仏プロジェクトは9年後!)
② 興福寺が藤原氏の氏寺で、母の供養は「藤原家のプライベート行事」だった。
だからこそ、天平の最高傑作・阿修羅像たちが今も興福寺にいるんだよ!
東大寺は「国家の仏教」。
興福寺は「藤原家の仏教」。
って役割分担が、天平時代にバッチリあった証拠だね。
これで阿修羅像の「なぜ興福寺?」がスッキリしたでしょ・・・か?
もっと(例:大仏造立の詳しい話とか)知りたいことあったら、いつでも聞いてね!
興福寺と東大寺、両方回ると天平のドラマが100倍楽しいよ~!