<絵はがきで見る近代の佐賀>(15)昭和13年に貫通道路竣工 県立図書館副館長 浦川 和也
<絵はがきで見る近代の佐賀>(15)昭和13年に貫通道路竣工 県立図書館副館長 浦川 和也 2025/12/23 14:00 学芸派遣社員用絵はがきに「佐賀 貫通道路」と記されているが、若い人には「貫通道路(かんつうどうろ)」と言ってもほとんど通じない。 左側中央に写る建物は、大正3~4(1914~15)年に佐賀県物産陳列場として移転新築され、当時「商工奨励館」と呼ばれていた県の建物だ。
画像を拡大する絵はがき「佐賀 貫通道路」 (佐賀県立図書館蔵)
絵はがきに「佐賀 貫通道路」と記されているが、若い人には「貫通道路(かんつうどうろ)」と言ってもほとんど通じない。
左側中央に写る建物は、大正3~4(1914~15)年に佐賀県物産陳列場として移転新築され、当時「商工奨励館」と呼ばれていた県の建物だ。この場所には、昭和32(1957)年に県商工会館が建ち、現在はNHK佐賀放送局がある。つまり、絵はがきの「貫通道路」は、県庁前の北堀端を東西に走る現在の国道264号線・207号線(旧国道34号線)に当たる。
佐賀は城下町で、T字型の交差が多い。馬車・自転車・自動車が増えると不便を極め、既に大正期には城下を東西に真っすぐ通す道路が待望されていた。
『佐賀この100年』などによれば、巨勢(こせ)村牛島の構口(かまえくち)から鍋島村八戸(やえ)の高橋までの約4・3キロを真っすぐに通す「貫通道路」の工事を、昭和6(1931)年12月から昭和11年までの足掛け6年間で実施したとある。
この時期の佐賀新聞によると、工事は、昭和6年度は県事業として構口―椎小路東詰(しいこうじひがしづめ)(材木町角)700メートル、以後は国事業として7年度に珍ノ山(ちんのやま)(現在の警察本部前交差点付近カ)―本行寺(ほんぎょうじ)門前(西田代)934メートル、8年度に本行寺門前―八戸村高橋1274メートル、9年度に椎小路東詰―佐嘉神社南576メートルと西堀端角―珍ノ山134メートル、10年度に北堀端724メートルに分けて実施された。道幅は8間(約14・4メートル)で、北堀端を含む片田江―珍ノ山は10間(約18メートル)と、当時では極めて高規格だった。
一般的には昭和11年完成と言われているが、実際はその後も工事は続いた。昭和12年4月1日付の佐賀新聞には「貫通道路舗装 佐嘉神社前=西堀端間 愈々(いよいよ)五、六月頃着工」の記事がある。この北堀端の舗装工事は13年1月に竣工した。
絵はがきに写る路面はきれいに舗装され、竣工後間もない時期に見えるので、この絵はがきは昭和13年かその後数年の間に発行されたものだ。
さて、工事により北堀端の道幅を10間に広げるため、北堀が5間(約9メートル)埋め立てられた。
『肥前史談』昭和10年9月号によれば、肥前史談会長千住武次郎(せんじゅうたけじろう)が、東京帝国大学名誉教授黒板勝美(くろいたかつみ)の助言を受ける形で、同年7月30日、「城濠埋立ての道路面に明かに限界を画すべく適当なる記標(しるし)を施し後世永く之を判別し易(やす)」くしてほしいとの陳情書を佐賀県知事古川静夫及び佐賀市長横尾敬義あて提出した。千住は当時県立佐賀図書館長だったが、あえて肥前史談会長名で県知事に陳情したのは、城堀の歴史的景観の破壊に対する彼の危機感からであろう。
陳情は奏功した。同誌昭和13年2月号によれば、舗装された貫通道路の北堀のラインに花崗岩の菱形の記標(長15センチ×幅10センチ)が数十間毎に打込まれたとのこと(現在この記標がどうなったかは知らない)。
なお、『栄城人国記』や官報などによれば、千住武次郎は旧制佐賀中学校を明治22(1889)年、旧制第五高等学校を27年、東京帝大国史科を30年に卒業した。「国史学界の泰斗(たいと)」黒板勝美は、佐中を23年、五高を26年、東京帝大国史科を29年に卒業した。ここにも佐賀人脈の連携があった。
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