岸政彦「他者理解には、必ず『暴力性』が含まれている」
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岸政彦「他者理解には、必ず『暴力性』が含まれている」

2019.11.18
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岸政彦「他者理解には、必ず『暴力性』が含まれている」

『図書室』刊行記念インタビュー(後編)

小野 美由紀

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岸政彦さんへの『図書室』刊行記念インタビュー(前編はこちら)。後編では、大阪や沖縄が好きな理由、「体張って生きてる人が偉い」という信仰、他者理解をめぐる困難について──。

──岸先生のエッセイにも、小説にも、社会学者として収集しておられる「匿名の個人の生活史」への眼差しが多く反映されているように感じます。個人の生活史にご興味を持ち始めたのはいつからですか?

岸:もともと『ROCKIN'ON JAPAN』って雑誌、あるじゃないですか、あの副編集長が昔出してた『ポンプ』っていう、薄い、最初から最後まで読者投稿欄だけの雑誌があったんですよ。そこに長文からハガキの小ネタまで、なんでも載ってたんですよね。写真やイラストとかも。匿名の人たちの、なんでもない文章やメッセージがたくさん載ってて、それを読むのが好きだったんだよね。他にもスタッズ・ターケルっていう、オーラルヒストリーだけを並べて分厚い本を書くアメリカの作家がいて、中学生や高校生のときにそういうのを読みながら、こんな本が書きたいなあ、とずっと思っていた。

ジャーナリズムにも興味があったけど、人見知りで引っ込み思案だから無理だと思ってて。大学入って、社会学者って調査をやるから、そういう「肩書き」というか「枠」があれば自分でもできるかもと思ってその道に進んだ。

で、96年からインターネットをやるようになって、HPを立ち上げて。稲葉振一郎から「ネットジャンキー」と言われるほど、ネットの世界にどっぷり浸ってました。だから、いまでも一般の人たちが書いたものが好きで。昔はたくさんあったんですよ、前略プロフとか魔法のiらんどとか……。そういう昔のブログの、地方の無名の人たちが書いてるような、「お腹減ったー」って書いたまま放置されてるみたいな、そういうのが良かったんですよね。いまも、有名な人が書いた記事とかより、学生が普通にTwitterで書いている、なんでもない投稿の方が愛おしいというか。

岸政彦さん

「ものすごく整ったもの」に対する反発

岸:街にしても、京都の祇園みたいな情緒があって統一された世界観のある場所より、いま住んでる大阪の住宅地みたいな、世俗的でチェーン店ばっかりの、整ってない土地が好きで。

──先生の小説やエッセイにも、街の描写が多く出て来ますよね。

岸:大阪から出たくないですね。なんでこんなに大阪が好きなんだろうって、それは多分、故郷じゃないからなんですね。東京と大阪の大学、両方受験で受かったんですけど、大阪に来た時にすごく面白く感じて。大阪って、当時すごくカッコよかったんですよ。ギラギラして、バブルで、派手で。自分で発見した自分だけの街という感じがして、すごく惹かれたんです。地元の進学校で、大阪に来るやつなんて自分だけだったし、なんだかすごく自分が解放された瞬間があって。

で、大阪に来て、色々しんどいことがあって、たまたま旅行で沖縄に行った時に、もう一度解放された感じがした。そのときから沖縄にはまっていって、そのあと研究テーマになって、それがライフワークになりました。

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──『断片的なものの社会学』に書かれていた、初めて水着で海に入ったエピソードですね。

岸:そうです。解放の瞬間をもう一度経験して。だから沖縄もすごく好きで、今だにハマって通いつめてた頃の感覚から変わってなくて、生活の大きなところを占めるようになって。

冬の沖縄が好きなんですよ。仕事をわざと1日だけあけて、浦添や宜野湾の、ただの住宅地を散歩するんですよ。なんでこんなに好きなんだろうって。

でも、そういう沖縄に対する「ロマン」みたいなものも、結局は私自身の植民地主義的な眼差しなんですね。研究するうちにそういうことに気づいていって、何も書けなくなった。いまこの歳になっても必死で沖縄でしんどい聞き取り調査をしていますが、それは自分自身の植民地主義と向き合う作業だと思ってやってます。ただ、沖縄という場所が、とても美しい、素晴らしい場所であるという思いは変わりありません。

──解放されたという体感が、場所と紐づいている。

岸:そうですね、そういう認識があったんですね。大阪でも、好きなんだけど、東京とかの出張先から大阪帰ると、めっちゃイライラするんですけどね、歩きタバコむっちゃ多いし、声はでかいし、ほんま大阪人嫌いやわ、と思ったりするんですけどね(笑)。飾ってないところが好きなんですよ。バラバラの建物が、ぐちゃぐちゃに建ってて、世俗的な、統一されてない……。

──断片的ですね。

岸:人が暮らしてる感じがね。「ものすごく整ったもの」に対する反発、みたいなものがあるんでしょうね。きっと。

「どうやって飯を食うのかを一番に考えろ」

岸:僕は、「飯を食う」ことを真剣に考えている人がすごい好きで……。リベラルの中に、その辺が甘い人間が多くて腹立つんですよ。自分で泥かぶって飯を食う、っていうことを見下している。

──労働してお金を稼ぐことを、ですか?

岸:ある年代のリベラルな文化人で多いのが、経済成長は要らないんじゃないの、とか、みんなで貧しくなればいいんだ、みたいな。最悪です。それが団塊の世代だったりすると、もう勝ち逃げじゃないですか。やっぱり経済成長は必要だし、そのために反緊縮主義を掲げる財政政策に移行したほうがいい。お金大事ですよ。

「どうやって飯を食うのかを一番に考えろ」と僕は学生にも言う。飯が食えてるからこそ好きなことができてる。お金って大事ですよ。友達が落ち込んでるときにも、飲みに行こうやって言うには、多少のお金がないとできないしね。

教え子で風俗嬢がいて、どうやってその業界に入ってくの、とかいろいろ聞いてみたら、「サービスが終わって、お金をもらった時に、初めて自分に価値があるとわかる」と言っていて。そういう形で、自分の価値を確認することも、この世界にはあるんです。

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──自分の肉体一つでお金もらえるってすごい承認ですよね。快感。

岸:そっちの道に進めとは言えないけど、否定はできない。

──自分へのニーズを感じるって、倫理を吹っ飛ばして嬉しい。

岸:そう、だからね、たとえば上野千鶴子さんが前に言った「みんなで貧乏になろう」という話には全然、当事者性がない。うちも自営業やったし、親戚もたくさんいるんだけど、ほとんど僕だけ大卒で。そういう家系だから、サラリーマンがまずいない。だから、手に職つけて働いて飯食ってるってことが偉い、と言う意識が、僕にもあるんだよね。もちろん、鬱とかで働けない場合は生活保護を貰えばいいわけだし、それは市民として当然の権利やと思うけど、働いて飯食ってるのは美しいと思う。だから、貧困と差別の中で戦ってきた沖縄や在日の人を尊敬しているんです。そのへんで、たまにリベラルの人らと全然話が合わないんです。

なんていうか、体張って生きてる人が偉い、みたいな信仰が僕にはあって。

──信仰ですか?

岸:そうです、信仰ですね。

──"体を張って生きてる人” の中に、先生ご自身は入っている?

岸:『ヤンキーと地元』の打越正行とかに比べると僕なんかまだまだぬるいですけどね……あいつの調査は素晴らしいです。あんなに美しい調査はないですよ。同じ暴走族のメンバーと10年付き合ってるんだよね。

ちょっと、いやだいぶ話がずれますが、「承認」って本来、フィジカルなものなんですよね。フィジカルな承認ってすごい大きいの。基本的に、えーと、全存在が肯定されること、フィジカルに存在が肯定されることって、まず良いことなはずだ、と思ってるんですけど。それが強いね。「かっこいいね」とか「可愛いね」とか言われるのが悪いものであるはずがない。

基本的に自分の身体に嫌悪感があって、コンプレックスがあるんですよ。でも『はじめての沖縄』でも書いたけど、沖縄に初めて行った時に、海で水着になって、その時に初めて、存在を肯定された感じがして。それはもちろん、沖縄に対するナイチャーからの植民地的な思想だと後で気づいたんですけど。僕の場合は、沖縄に来て初めて、自己を回復できた。その恩返しをしないと、と思いながらやってます。

だからってことでもないですが、やっぱり体張って生きてるひとの「美しさ」をよく思うんです。

他者理解には、必ず暴力性が含まれている

岸:ただ、身体性というところから考えてもいつも思うんですが、やっぱり人間ってすっごい分断されてるよねって思う。個人の努力でなんとかなると思っていても、でもやっぱりいろんな種類の「ガラスの天井」にぶち当たることがある。社会って繋がってる状態やん、ってみんないうけど、繋がってないじゃん、って。

沖縄の問題にしろ貧困にしろ差別にしてもジェンダーの問題にしても、そこはね、可視化していかないと、と思います。

いま、社会学者としては、沖縄の階層格差に関する本を書いているんですが、調査は7年前からはじめて、原稿も3年前には完成してるんだけど、そこから書けなくなっちゃって。

最初は沖縄のイメージを壊したい、と思って始めたんですけど。「沖縄」ってものを一枚岩的、共同体的に描く話法があるでしょう?

──沖縄ってこんなにいいところ!みたいな……。

岸:そうそう。それを崩したくて。植民地主義そのものですからねそれ。沖縄にも分断もあるし、階層格差もあるよ、って言いたくて。でも、ナイチャーである僕が沖縄の分断を暴き立てる、みたいなことしていいのかな、って。それを書くことで沖縄の人びとが傷つくかも、って思って、ぜんぜん書けなくなっちゃって。そんなことを沖縄の友だちに相談すると「考えすぎ」って言われるんですけど、そこで開き直りたくない。階層格差に限らず、ひとの生活史を書くことそものに、恐怖感があります。

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──沖縄について書くことは、加害者としての責任感、みたいなものがあるって以前著書の中でおっしゃっていましたね。

岸:そうです。沖縄のことは簡単に外部の人が理解できない。まして日本人(あえて「日本人」と言いますが)の側がジャッジするみたいなことはしちゃいけない。地元のひとのなかにも、基地に積極的に賛成するひとはめったにいないにしても、「条件付き容認派」はたくさんいて、首長選挙でも保守派が勝ったりする。そういう人をどう捉えるか。基地容認派の沖縄の人びとをどう捉えるか。ナイチャーの左派は、そういう人をすぐ批判するんです。そんなの、結局沖縄のひとが主体的に決める問題なんですよ。だから、その結果として基地容認なら、それをナイチャーが簡単に批判してはならない。

でも、それはそれとして、基地には反対である、という個人の意見を表明する権利は、僕たちにもあります。だから、沖縄の人びとの自己決定権を尊重しながらも、それでも基地反対って言い続けるにはどうしたらいいのか。

──個人の話を聞いていくと、簡単には基地反対と言えなくなってゆきそうです。

岸:最初は反対って言ってても、知れば知るほどね、なんかこう、オセロがひっくり返ってくわけです。だんだん沖縄の内情を理解してくと「それで飯食ってく人もいるんだ」みたいなね。

──原発問題と一緒ですね。

岸:そう。でも、だからこそ、もう一回ひっくり返さないといけない。賛成とも反対とも安易には言えないけど、でも反対だと言わなきゃいけない。どっちもどっちだとは言えないよね。

性暴力の問題なんかでも、加害者なりの言い分を聞いてしまうと、この人にも事情があるんだ、みたいに思ってしまうことはあるでしょう。けど、ダメなんです。賛成とも反対とも安易には言えないけど、でも言わなきゃいけない。どっちもどっちだとは言えないよね。

加害者の言い分をわかった上で、それでも「ダメ」って言わないといけない。言い分を聞いて、理解して、じゃあいいじゃん、ってなっちゃダメですよ。そこ、本来なら判断が難しいところなんですが。

沖縄の性暴力の壮絶な実情を描いた『裸足で逃げる』という名著を書いた上間陽子さんのが、その本に出てくる「加害者」の男性に会いに行ったそうです。被害者の女性にたかってた男がいまは東京でホストをしていて。で、喋ったら、その男の方も、壮絶な生育歴だったんですね。でもそれを書くと、男性側の暴力を理解したことになってしまう。

理解って、責任解除を必ず伴うんですよ。「それだったらしょうがないな」っていう理解を、効果として産んでしまう。けどそれが倫理的に許されるかどうかって言ったらそうじゃない。じゃあ、責任解除を一切伴わない理解が原理的にあり得るか。それはかなり難しい。

ひとの生活史を理解するっていうことは、そのひとが置かれた状況を理解するということです。そういう状況であればこういう行為をするだろうってことだから、それは一種の合理化ですよね。そういう状況だったらしょうがないっていう。生活史っていうのは、簡単にいえば、「その都度の行為選択の連鎖」なんですが、それぞれの行為選択がどのような状況でなされたかっていうことを理解することは、その選択を合理化する、ということでもあります。

──加害者自体も被害者だから、しょうがない。加害者を取り巻く環境やシステムのせいだから、と考えるのは合理化?

岸:そう。そうした合理化をすることで、加害者を理解「してしまう」という恐怖がある。それをやったら責任を問えなくなる、情状酌量してしまうんじゃないかって恐怖感がある。

──それは書き手として?

岸:そうです。原理的に、理解にはそういう問題が常に潜んでいるので、どこまでその恐怖に抵抗しながら、倫理的な判断ができるかって。アクセルとブレーキを踏み込むような感じです。理解できるよ!と、差別はダメ!って、簡単に言い切ることはできないけど、両方せなあかん。両方をどれぐらい保持したままどこまでいけるかということが問われている。

これって、構造的な問題ですよね。だから、理解しようとするひとの「個人的な努力や技術」とは関係なく生じる問題だと考えてます。だから、「責任解除せずに加害者の理解って普通にできるんちゃう?」って軽く言っちゃうひとも多いんだけど、テクストというものは構造のなかではじめて意味を持つので、個人の「努力」でそれを回避するのは非常に難しい。絶対できないとは言いませんが。

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ちょっと話ずれますが、一見リベラルを装ったマジョリティの立場にいる人間が、個人の振る舞いによってそこから降りられるよね、と考えてしまうことがある。それとパラレルだと思ってます。

以前、ある自助グループに参加した時、グループトーク中に痴漢の被害にあったことを訴えた女性に対して、その場にいたおじさんが「でも男も差別されてるし男への痴漢もあるから一緒ですね」って言ったの。「男女関係なく、みんなの問題だね」って。それって台無しでしょ。

──最悪ですね。

「自分はマイノリティのことを理解できてる!」と考えるマジョリティより、俺は抜け出せないんだ、と言える人の方がよっぽどいいと思っている。「俺はわからない側である」ということを意識し続ける方がいい。

理解できるよっていうのも、一種の別の暴力だからね。理解できるよ、っていう人より、そこから降りれないのだということに意識的な人の方が僕は良いと思ってます。

──理解したと思うこと自体が暴力?

岸:そう。他者理解って必ず一般化を含むから。自分の言葉に彼らの言葉を翻訳するわけです。あるいは倫理的判断、それ自体が暴力。だから、いかにそういう営みが暴力かということを徹底的に考えた上で、それでも他者を理解し続けないといけないと思うんですよ。だから、一方で一般化の問題があって、他方で責任解除の問題がある。この中間地点のどこかで、どうしたら他者を書くことができるのかということを悩み続けてます。

世の中は「全体としては」進歩している

岸:可能性があるとすれば、さっき言ったみたいに、世の中には体張って生きている人間がいて、そういう人らが分かってくれるはずだ、って思いがあるんですよ。

しんどい思いを、みんなしているわけ。個人個人がしんどい思いをして生きてる。僕はそれを美しいと思ってます。そういう人間を僕は信頼している。だから、そういうしんどい思いをしている人間が他にもいるんだよ、っていうことをいつか理解できるだろうと。社会学者の中には、人間性なんて信用できない、と言うシニカルな人もいるけど、僕はそれを信頼している。

──どういう意味ででしょうか?

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岸:世の中って、「全体としては」進歩し続けている。たとえば性暴力についても、いま、こんなに言われるようになっていますけど、昔は大学の教授が学生に手を出すみたいなの、普通にやってたんだよね。僕が学生のときは、そういうことする有名な教授がいました。でもいまはそういうのも、かなり減ったんじゃないかな。個々の事象についてバックラッシュはあるけど、全体としては、すごくマナーが良くなってるし、犯罪も減ってるし、世の中は進歩してるんですよ。歴史は進んでいる。

それは上野さんに教わったんですよ。

──上野千鶴子さんにですか?

岸:そう。大学生の時、当時40代だった上野千鶴子がリレー講義で僕の大学で授業したんですよ。そのときの授業で、彼女はこういうことを言ってました。「ジェンダーの問題でも、その時々にはバックラッシュがあっても、我々の社会は全体としては進歩しているという信念があるからこそ、社会学をやっているんだ」って。まだ学生だった僕は、その言葉に非常に感動しました。 

それを、このまえ上野さんとのトークイベントで本人に言ったら、もちろん本人は覚えてなかったけど、それでもそうだよね、社会学っていいよね、みたいな、いい感じで終わりました(笑)。

生きていることを無条件に肯定することはできないんですよ。世界全体をね。生きてるってことは、しんどいことも信じられない嫌なことも起きる。ネットでも現実でも、ヘイトスピーチとか、バックラッシュもある。

──けど、少しずつ人々の行いによって変えてゆくことはできる?

岸:そういう絶対的な信念がある。僕自身は無宗教ですが、もしも根拠のない信念というものを「信仰」と呼ぶのだとしたら、僕の場合は「世界は『全体としては』良くなっている」、というのが信仰なんだろうなと思います。

(了)

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