織田信長の名言・格言
織田信長の名言・格言

織田信長の名言・格言

織田信長の名言には「恃(たの)むところにある者は、恃むもののために滅びる」、「是非に及ばず(しかたがない。やむを得ない)」などがあります。 天下人となるも家臣・明智光秀による本能寺の変で自害した織田信長(1534~1582)の名言をご紹介します。

目次

織田信長の生涯

氏名 織田信長 生年月日 1534年6月23日 没年月日 1582年6月21日 享年 47(歳) 国籍 日本 出生地 尾張国勝幡城(現在の愛知県愛西市勝幡町)※ 那古野城や古渡城の説もある 職業 武将、戦国大名、天下人 名言 攻撃を一点に集約せよ、無駄な事はするな。

1534年6月23日、織田信長は尾張国の戦国大名・織田信秀の嫡男として生まれる。

2歳のときに信長は那古野城主となる。信長は幼少のころから奇妙な行動が多く、周囲から尾張の大うつけ(常識にはずれた人物)と呼ばれていたという。

人質となっていた三河国の松平竹千代(徳川家康)と幼少期に知り合っていたともいわれる。

信長は12歳で元服。翌年に今川方との小競り合いにおいて初陣を飾る。

1548年、14歳の信長は父・信秀と敵対していた美濃国の戦国大名・斎藤道三の娘・濃姫と政略結婚。

1552年、父・信秀が亡くなり、18歳の信長は家督を継ぐ。

1556年、斎藤道三が長良川の戦いで息子・斎藤義龍に討ち取られる。織田氏と斎藤氏の関係は再び悪化、両者はしばしば交戦するがどちらも決定打を与えることなく推移。

1560年、駿河国の守護大名・今川義元が尾張国へ侵攻。桶狭間の戦いで信長は少数の軍勢で敵本陣を強襲し、今川義元を討ち取る。信長は今川氏の支配から独立した徳川家康と同盟を結ぶ(清洲同盟)。

1565年、河内国の戦国大名・三好義継、松永久通らが、対立を深めていた室町幕府14代将軍・足利義輝を殺害(永禄の変)。義輝の弟の足利義昭は殺害を免れた。義昭は奈良から脱出し、諸大名に上洛への協力を求めた。

1567年、信長は稲葉山城の戦いにより美濃国を平定。信長は稲葉山城を岐阜城に改名して居城とし、本格的に天下統一を目指すようになる。

1568年、34歳の信長は足利義昭を奉戴し、上洛を開始。信長は足利義昭を第15代将軍に擁立した。

1570年、織田・徳川連合軍は、姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍に勝利。この戦いで明智光秀や木下秀吉(豊臣秀吉)らが活躍したという。

翌年には、朝倉・浅井に味方した延暦寺を攻め、比叡山延暦寺を焼き討ちにした。

1572年、信長は足利義昭に対して17条からなる異見書を送り、詰問文により信長と義昭の関係は悪化。

1572年、将軍・足利義昭の織田信長討伐令の呼びかけに応じる形で甲斐の守護大名・武田信玄(1521~1573)が甲府を進発。

1573年、織田・徳川連合軍は三方ヶ原の戦いで武田軍に大敗。しかし、信玄は病死し、武田軍は甲斐国へ撤退した。

1573年、39歳の信長は足利義昭を京都から追放。室町幕府は事実上滅亡した。

1575年、長篠の戦いで、織田・徳川軍は武田軍に圧勝。

1575年、41歳の信長は征夷大将軍に匹敵する官職の右近衛大将に任じられる。呼名も「上様」となり、朝廷より「天下人」であることを事実上公認される。

1582年6月21日、家臣・明智光秀の裏切りによる本能寺の変で織田信長は自害、47年の生涯を閉じた。

Wikipedia(日本語) / Wikipedia(英語)

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