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text:hosshinju:h_hosshinju5-07 目次- 第五第7話(54) 少納言統理、遁世の事
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発心集
第五第7話(54) 少納言統理、遁世の事校訂本文
少納言統理(むねまさ)1)と聞こえける人、年ごろ、「世を背(そむ)かん」と思ふ心ざし深かかりしが、月くまなかりけるころ、心を澄ましつつ、つくづくと思ひ居たるに、山深く住まんことの、なほせちに思えければ、まづ家に、「ゆするまうけせよ。ものへ行かん」と言ひて、髪洗ひけづり、帽子なんどしける。
気色や知りたりけん、妻なりける人、心得て、さめざめとなむ泣きける。されども、かたみにとかく言ふこともなくて、明くる日、うるはしきよそほひにて、その時の関白の御もとに詣でけり。
「このこと、案内(あんない)聞こえむ」とすれど、申し入る人もなし。やや久しうありて、からうじて山里にまかりこもるべき暇(いとま)申せし間に、「しばし」とて、対面し給ひて、御念珠給はせて、「後の世には頼むぞ」とのたまひければ、涙をおさへつつ、数珠(ずず)をばをさめて、拝し奉りて、出でにけり。
僧賀聖2)の室に至りて、本意(ほい)の如く頭おろしてげれど、つくづくとながめがちにて、勤め行ふこともなし。物思へる様(さま)にて、常は涙ぐみつつ居たりければ、聖のあやしみて、ゆゑを問ひけり。言ひやる方なくて、余りのままに、「子生み侍るべき月に当りたる女の侍るが、思ひ捨て侍れど、さすがに心にかかりて」と言ふ。
聖、これを聞きて、やがて都に入りて、その家におはして尋ね給ふに、今、子を生みやらで、悩み煩ふ折なりけり。聖、祈りて生ませなんどして、人に尋つつ、うぶやしなひてなむ、乏(とも)しからぬほどにとぶらひ給ひける。
かくて、統理大徳、ひと方は心やすくなりぬれど、三条院3)、東宮と申しける時、つねに仕へ奉りしことの忘れがたく思えければ、奉れりける。
君に人なれな習ひそ奥山に入りての後はわびしかりけり
御返し
忘られず思ひ出でつつ山人をしかぞ恋ひしきわれもながむる
とて賜はりけるに、涙のこぼれけるを、おさへつつ居たりけるほどに、聖、聞きて、「東宮より歌賜はりたらん、仏にやはなるべき。この心にては、いかでか生死を離れんぞ」と恥ぢしめけり。