日本史上の美男・美女たち (改)
日本史上の美男・美女たち (改)

日本史上の美男・美女たち (改)

SPONSORED LINK SophiaESL 伝説の美男美女ではなくて、写真の残っている(ほぼ幕末以降)日本史に登場する美男美女を集めました。星の王子様と名高い有栖川宮威仁親王に、大正三美人。「銀河鉄道999」のヒロイン、メーテルのモデルとなった楠本高子、絶世の美女と名高い陸奥亮子も網羅。

まずは美女編

ja.wikipedia.org 陸奥亮子 (むつ りょうこ) 明治時代に活躍した外相・陸奥宗光の妻。美しいだけでなく聡明なことでも知られ、陸奥の赴任先のアメリカでは「ワシントン社交界の華」、帰国後は「鹿鳴館の華」と呼ばれた。 upload.wikimedia.org 陸奥一家 父:陸奥宗光 母:陸奥亮子 長男:陸奥広吉 長男もイケメン。 micmicmic.c.blog.ss-blog.jp 有栖川宮妃董子 (ありすがわのみやひ ただこ、皇族) 1855-1923 明治-大正時代,後述の有栖川宮熾仁親王(超イケメン)の妃。 安政2年5月12日生まれ。越後(えちご)(新潟県)新発田(しばた)藩主溝口直溥(なおひろ)の7女。病死した貞子妃のあと,明治6年熾仁親王と結婚。親王とともに佐野常民(つねたみ)らをたすけ博愛社(のちの日本赤十字社)創設につくし,東京慈恵医院幹事長を10年間つとめた。大正12年2月7日死去。69歳。幼名は栄姫。 www.kumanekodou.com 北白川宮拡子 (きたしらかわのみやひろこ、皇族) イケメン編にも登場する北白川宮成久王の妹君。 旧宮家の美しい女王

のちに二荒 芳徳(伊達家)に嫁ぎました。

bakumatsu.org 楠本高子 (くすもと たかこ、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの孫娘) シーボルトのお孫さん。メーテル(銀河鉄道999)のモデルでもあります。

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト 長崎の出島のオランダ商館医。出島内において開業の後、1824年には出島外に鳴滝塾を開設し、日本国内での西洋医学(蘭学)教育を推進した。

upload.wikimedia.org 下田歌子 (1854年 – 1936年)

岩田藩(現在の岐阜県)の生まれだが、父と供に上京し、女官として宮中へ出仕する。和歌の才能を皇后・美子から愛され「歌子」の名を賜る。 後半生は女子の教育に尽力し、現在の実践女子学園の前身である桃夭女塾を作った。 ちなみに袴にブーツというハイカラさんスタイルを提唱したのは彼女である。

bakumatsu.org 鍋島栄子(なべしまながこ) 佐賀藩最後の藩主、11代鍋島直大公夫人。 ローマで結婚式を挙げ、イタリア社交界で活躍。帰国後は鹿鳴館の華として注目された。 帰国後の明治20年以来、日本赤十字社篤志看護婦人会長として活躍、また東洋婦人会・大日本婦人教育会など数々の婦人団体を主宰した。 bakumatsu.org 楢崎龍 (ならさき りょう、坂本龍馬の妻) 一家離散後、各地を放浪するなかで坂本龍馬と出会う。龍馬によって寺田屋に預けられたお龍は、慶応2 年(1866)、入浴中に捕り方の気配に気づき、裸のまま2階に駆け上がって龍馬に襲撃を知らせた(寺田屋襲撃事件)。九死に一生を得た龍馬を支えたお龍と龍馬は直後に正式に結婚。龍馬は姉・乙女への手紙で「まことにおもしろき女」とお龍について記している。龍馬の死後は土佐の坂本家を頼ったが、龍馬の姉・乙女との折り合いが悪くやがて各地を転々。明治18 年(1885)、西村松兵衛と再婚したが、晩年はアルコール依存症で、「私は坂本龍馬の妻だ」とたびたび口にしたという。享年67 歳。 stat.ameba.jp 江良加代 1(えら かよ、京都祇園の芸妓) 五代目中村歌右衛門をして「こんな芸妓、生涯二度とお目にかかるまい。」と言わしめた京都祇園の芸妓・江良加代 。

西園寺公望が家訓を無視してまで妻にしようと愛し、桂小五郎(木戸孝允) に愛され、伊藤博文にも入れ込まれたが相手にせず、最後は豪商・三井松坂家の三井源右衛門の妾となり幸せに生涯を送ったという伝説の女性です。

bakumatsu.org 江良加代 2 encrypted-tbn0.gstatic.com 薩摩千代子(薩摩治郎八の妻) 山田英夫伯爵の令嬢、フランスでバロン薩摩と呼ばれた富豪、薩摩治郎八の妻。藤田嗣治が「ドーリー(お人形の意)」と呼んでかわいがった美人で、カンヌの美人コンクールでも優勝、フランスのファッション誌『ヴォーグ』にも何度も登場したという国際派の美人。洋画家の佐伯祐三にも愛されていたとかいないとか。 encrypted-tbn0.gstatic.com 薩摩千代子 2 www.kumanekodou.com 徳川鏡子 徳川家最後の将軍、徳川慶喜の長女。 田安家第9代当主、徳川達孝に嫁ぎ4人の娘を産むも、21歳(数え年)で夭逝。

左に写っているおばあさまは、鏡子の祖母、徳川吉子で、慶喜の生母。

bakumatsu.org 島津暐姫(てるひめ) 島津斉彬みずから撮影したものと伝えられるこの3人の少女の写真は、斉彬公の娘たちの肖像で、左より典姫(のりひめ)、暐姫(てるひめ)、寧姫(やすひめ)。 chinchiko.c.blog.ss-blog.jp 大倉(溝口)久美子 大倉財閥2代目総帥、大倉喜七郎男爵の夫人。伯爵・溝口家で育った生っ粋の旧山乃手人。

当時新聞記者だった作家の子母澤寛が「当時の美人と言えば九条武子、江木欣々が有名であるし、わたしも皆お会いしたが、この方(大倉久美子さん)の美しさもそれに並ぶかそれ以上で、インタビューの間しばしば見惚れてしまった」というようなことが著書「味覚極楽」に書いてありました。

大正三美人 - 柳原白蓮、九条武子、江木欣々

encrypted-tbn0.gstatic.com 柳原白蓮 (やなぎわら びゃくれん、大正3美人の1人、歌人) 本名は柳原燁子(あきこ)。 大正天皇の生母である柳原愛子の姪で、大正天皇の従妹にあたる。

華族の令嬢にして楚々とした和風美人ですが、うちには熱いものを秘めていた女性のようです

「白蓮事件」 大正10年10月、大阪朝日新聞に、夫、九州一の炭坑王・伊藤伝右衛門へ突きつけた絶縁状を公開し、7歳年下の帝大生・宮崎龍介の許へと走った。

encrypted-tbn0.gstatic.com 九条武子 1(くじょう たけこ、大正3美人の1人、歌人/教育者/社会運動活動家) (1887年(明治20年)10月20日 – 1928年(昭和3年)2月7日)

西本願寺の法主を代々務めてきた大谷家のお姫様(実兄、大谷光端もイケメン編でご紹介しておきました。)

私生活では1909年(明治42年)、公爵家出身で正金銀行勤務・九条良致(くじょう・よしむね)に嫁ぐ。 仏教主義に基づく京都女子専門学校(現・京都女子学園、京都女子大学)を設立、関東大震災で全壊した築地本願寺の再建、震災による負傷者・孤児の救援活動(「あそか病院」などの設立)などさまざまな事業を推進した。

encrypted-tbn0.gstatic.com 九条 武子 2 encrypted-tbn0.gstatic.com 江木欣々(えぎ きんきん、大正3美人の1人) 明治期の法律学者・江木衷の妻。本名は栄子。号を欣々、または欣々栄と称した。生年は1879年(明治12年)説(墓誌)がある。

現代の美人の定義とは少し違う気もしますが、女流小説家の長谷川時雨に 「黒目がちの大きな目(中略)色んな面を見せて複雑に輝く切子の壺のような女性」といわしめた、素敵な女性です。

micmicmic.c.blog.ss-blog.jp 林 (日向)きむ子(はやし きむこ、舞踏家/作家/社会運動家/実業家) 明治17年(1884年)12月1日 – 昭和42年(1967年)2月2日)

前出の江木 欣々の代わりに大正三美人の1人として数えられる場合もある。 戸籍名は「きん」。日本女子美術学校卒業。日本舞踊協会監事。明治~大正期に流行した「美顔水」の考案者とされている。

home.att.ne.jp モルガンお雪 胡弓の名手で、富豪モルガンに見初められ、明治時代に国際結婚した祇園の芸妓。

名前のせいか女優の小雪さんにも似ている気がします。

encrypted-tbn0.gstatic.com 斎藤 きち(さいとう きち) 幕末から明治期にかけての伊豆国下田の人気芸者

日本の初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスの看護をしたことで”外国人に身を任せた恥知らず”と周囲に誤解を受け、失意のまま自殺してしまう。満48歳没(享年50)。

livedoor.blogimg.jp 川上貞奴 明治4年 東京生まれ。幼少より才女の誉れ高く、美貌で諸芸に優れ、伊藤博文などの明治の元勲のひいきをうける。明治27年 川上音二郎と結婚。同32年、女優貞奴となり、米、仏、英、ロシアで名声を博す。仏政府よりオフィシェ・ド・アカデミー勲章受賞。大正6年引退。ピカソのモデルは承諾するも、ロダンにオファーされた時はロダンの名を知らずに断わった逸話はあまりに有名。 encrypted-tbn0.gstatic.com お葉 本名、佐々木カネヨ。竹久夢二に「お葉」と名づけられる。

12歳の頃より、画家のモデルを始める。後に近代洋画の巨匠、藤島武二や責め絵画家、伊藤晴雨のモデルもつとめるようになるが、大正8年、夢二と出会い共に暮らすようになる。代表作「黒船屋」を始め、夢二式美人画の源泉となる。 6年後には夢二と別れることになるが、晩年は医師と結婚し、主婦として静かな生活を送った。

encrypted-tbn0.gstatic.com 山田順子 (やまだ ゆきこ、作家) 1901年6月25日 – 1961年8月27日

竹久夢二が前出のお葉と別れた原因が山田順子。

最初の夫と離婚後、徳田秋聲の門下に入り、文壇きっての美女と呼ばれるようになる。恋多き女性で、徳田秋聲、竹久夢二、勝本清一郎と関係を持った。

encrypted-tbn0.gstatic.com 山崎富栄 太宰治の愛人。名家の令嬢にして才色兼備だったとか。最後は太宰とともに玉川上水で心中を遂げた。 encrypted-tbn0.gstatic.com 諏訪根自子 1 (すわ ねじこ、バイオリニスト) 1920年(大正9年)1月23日 – 2012年3月6日

3歳より小野アンナ(バイオリニスト)の孫弟子としてバイオリンを始める。1929年小野アンナ門下生の発表会で演奏して次第に注目を集め、1931年朝日新聞に「天才少女」として紹介される。第二次世界大戦中はヨーロッパに滞在、1942年ドイツに移り、ベルリン・フィルと共演、ゲッベルスからストラディヴァリウスと伝えられるヴァイオリンを贈られる。

columbia.jp 諏訪 根自子 2 (少女の頃) encrypted-tbn0.gstatic.com 藤蔭静樹 (ふじかげ せいじゅ、舞踊家) 1880年(明治13年)10月13日 – 1966年(昭和41年)1月2日

新舞踊運動の先駆者として活躍した舞踊家で藤蔭流(ふじかげりゅう)の創始者。 一年半ほどの短い間、作家・永井荷風とは結婚していたが、離婚後も関係は続き、荷風の月命日には荷風の最期の食事だったカツ丼をとるのを習いとしたそう。

pbs.twimg.com 細川護久侯爵夫人、宏子 佐賀藩主鍋島直正の娘。 佐賀藩側の宏子の輿入れの責任者はあの大隈重信とのこと。どれほど大きな結婚だったのかがしのばれます。

日本史上のイケメン達

i.pinimg.com 有栖川宮威仁親王 (ありすがわのみや たけひと、皇族/軍人) (文久2年1月13日(1862年2 月11日) – 1913年(大正2年)7月5日)

明治天皇の信頼も厚く、大津事件では事態の収拾に奔走した。1913年(大正2年)7月5日、威仁親王は舞子別邸において52歳で薨去。男系の後継者がいなかったため、有栖川宮は皇室典範の定めによって断絶が確定した。

有栖川宮詐欺事件(ありすがわのみやさぎじけん)はこの断絶したはずの有栖川宮を偽った男性による詐欺事件(2003年(平成15年)4月)。華族・有栖川宮の祭祀継承者であると偽った男性が偽の結婚披露宴を開催、招待客から祝儀等を騙し取った。

upload.wikimedia.org 東郷平八郎 (とうごう へいはちろう、海軍軍人) 弘化4年12月22日(1848年1月27日) – 昭和9年(1934年)5月30日)

日本の武士(薩摩藩士)、軍人である。階級は元帥海軍大将。栄典は従一位・大勲位・功一級・侯爵。

日清・日露戦争での活躍で世界中にファンがいる日本史きってのイケメン。 ・トーゴービール(フィンランド、1992年販売終了) ・Gensui タバコ (ブラジル) ・トーゴーというファーストネームをつけるのが流行った (トルコ) その名前は文字通り世界にとどろきました。

userdisk.webry.biglobe.ne.jp 東郷平八郎翁 お年を召すとなお素敵になるタイプのようですね。 www.edojidai.info 徳川慶喜 (とくがわ よしのぶ、江戸幕府第15代征夷大将軍) 1837年10月28日〈天保8年9月29日〉- 1913年〈大正2年〉11月22日)

江戸幕府最後の将軍。 父は徳川斉昭(1800-1860年)で、母の吉子女王は有栖川宮熾仁親王の娘で皇族。

bakumatsu.org 徳川昭武 (とくがわ あきたけ、清水徳川家第6代当主/水戸藩第11代(最後)の藩主) 嘉永6年9月24日(1853年10月26日)ー 明治43年(1910年)7月3日

江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の異母弟。13歳の時、パリ万博に将軍慶喜の名代として参加し各国を歴訪した、万博終了後に引き続き、幕府代表としてスイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスなど欧州各国を歴訪する。

自転車や狩猟、写真、園芸などの多彩な趣味を保有。隠居後、盛んに静岡と往来し、慶喜と一緒に写真撮影や狩猟に出かけるなど交流を深めた。

upload.wikimedia.org 松平 容保 (まつだいら かたもり、幕末の大名。陸奥国会津藩の第9代藩主) 天保6年12月29日(1836年2月15日)ー 明治26年12月5日(1893年12月5日)

京都守護職。高須四兄弟の一人で、血統的には水戸藩主・徳川治保の子孫。現在の徳川宗家は容保の男系子孫である。

細面の貴公子然とした風貌で、京都守護職の容保が宮中に参内すると女官たちが「会津中将さま」とそわそわした、という逸話も残っている。

encrypted-tbn0.gstatic.com 松平康荘 (まつだいら  やすたか (慶応3年2月6日(1867年3月11日) – 昭和5年(1930年)11月17日)

明治から昭和期の日本の華族。旧福井藩主家(越前松平家)第18代当主 明治17年ドイツに、20年英国に留学。帰国後、福井に農事試験場を設立する。貴院議員、大日本農会会頭などを務めた。

youzantei.la.coocan.jp 渋沢平九郎 (しぶさわ へいくろう、幕臣) (1847~1868) 渋沢栄一の義弟にして仮養子。幕末の志士の一人。 明治維新時、幕臣の子として新政府軍と戦い、20歳の若さで現在の越生町で自刃した。 livedoor.blogimg.jp 奥平昌邁(おくだいら まさゆき、豊前中津藩の最後(第9代)の藩主) 安政2年4月1日(1855年5月16日) – 明治17年(1884年)11月26日)

伊予宇和島藩主・伊達宗城(四賢候の一人)の三男。 正室は水野忠精(水野忠邦の長男)の娘。中津藩初代知事。伯爵。

upload.wikimedia.org 林忠崇 (はやし ただたか、幕末の大名・上総国請西藩の第3代藩主) 嘉永元年7月28日(1848年8月26日)ー 昭和16年(1941年)1月22日

「最後の大名」と呼ばれた請西藩の第3代藩主。 将軍・慶喜に忠誠を誓うも鳥羽伏見の戦いの後、官軍と戦う軍事力は自分の藩にはないと判断し、領民の為に藩主自ら脱藩という歴史上稀にみる大決断をわずか20歳にして行う。

脱藩後、自身は浪人の身となり、幕府側の人間として戦うも、徳川家の存続と慶喜の命が保障されたことを知り、命をとして降伏。

明治26年(1893年)、林家の家名復興の嘆願が認められ、忠崇も華族の一員となり、その後は宮内省や日光東照宮などに勤めた。昭和16年(1941年)1月22日、満92歳没。

www.google.com 山内容堂 (やまうちようどう、土佐藩15代藩主) (文政10年10月9日(1827年11月27日)-明治5年6月21日(1872年7月26日))

幕末の四賢候の一人。酒と詩をこよなく愛し、「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」とみずから名乗っていた。愛飲していた酒は「剣菱」。

孫もイケメンの山内豊景。

cdn-ak.f.st-hatena.com 山内豊景 (やまうち とよかげ、旧華族/陸軍軍人) 1875年(明治8年)9月9日 – 1957年(昭和32年)1月5日)

前出の土佐藩15代藩主、山内豊信(容堂) の孫。写真は妻、伏見宮貞愛親王の娘、禎子女王と。

katsukaisyu.com 勝海舟(かつ かいしゅう、幕臣) (1823年3月12日〈文政6年1月30日〉- 1899年〈明治32年〉1月19日)

長崎海軍伝習所では生徒監を命ぜられる。万延元年に咸臨丸にて渡米。 その後、神戸海軍操練所を開設、門下に坂本龍馬、睦奥宗光などがいる。 戊辰戦争が勃発すると陸軍総裁に命ぜられ、江戸無血開城を成す。

encrypted-tbn2.gstatic.com 五代 友厚 (ごだい ともあつ、明治初期の実業家) 1835.12.26.ー 1885.9.25.

薩摩藩の出身で通称、五代才助(ごだいさいすけ) 安政4 (1857) 年藩命で長崎に留学し,航海,砲術,測量を学ぶ。慶応1 (65) 年藩命によってヨーロッパを視察,帰国後は藩の開明派の指導者となり藩の貿易発展に活躍。 のちに瓦解寸前であった大阪経済を立て直す。その経済手腕により、東の渋沢栄一、西の五代友厚とも称される。

upload.wikimedia.org 秋山好古 (兄)(あきやま よしふる、陸軍軍人) 安政6年1月7日(1859年2月9日)- 昭和5年(1930年)11月4日)

日本騎兵の父にして教育者。 松山藩の下級武士秋山久敬の家に生まれ、大阪師範学校を経て陸軍士官学校入学。 1887(明治20)年には旧松山藩主の久松家当主・久松定謨の補導役としてフランスに渡り、騎兵戦術の習得に努めた。 日露戦争ではロシアのコサック騎兵を相手に奮闘し、日本の勝利に貢献。 晩年は北予中学校(現松山北高)の校長になり、後進の育成に尽くした。

i.pinimg.com 秋山真之 (弟) (あきやま さねゆき、海軍軍人) 慶応4年3月20日(1868年4月12日) – 大正7年(1918年)2月4日

大日本帝国海軍の海軍中将。 日露戦争では連合艦隊司令長官東郷平八郎の下で作戦担当参謀を務めた。 ロシアのバルチック艦隊が回航すると迎撃作戦を立案し、日本海海戦の勝利に貢献、日露戦争における日本の政略上の勝利を決定付けた。

生粋の日本人ですが、日露戦争時にはロシア人をして「日本軍の指揮官にロシア人がいる!」と混乱させたほど彫りの深い顔立ちでした。

upload.wikimedia.org 花房義質 (はなぶさ よしもと、明治・大正期の外交官) (1842年2月10日(天保13年1月1日) – 1917年(大正6年)7月9日)

岡山藩士で実業家、政治家(初代岡山市長)花房端連の長男。爵位は子爵。歴任した主な官公職は枢密顧問官、日本赤十字社社長など。

bakumatsu.org 横山常守(よこやま つねもり、会津藩士) (1847年(弘化4年)- 1868年6月20日(慶応4年5月1日))

幕末の会津藩士、通称主税。 前出のパリ万国博覧会に使節団として派遣された徳川昭武の随員として訪仏、その後欧米諸国の視察を命じられイギリス、プロシャ、オランダ、ロシアなどを歴訪した。

image.space.rakuten.co.jp 菱田春草(ひしだ しゅんそう、日本画家) (1874年(明治7年)9月21日 – 1911年(明治44年)9月16日)

横山大観、下村観山とともに岡倉天心の門下で、明治期の日本画の革新に貢献した。

36歳という若さで夭折したため作品数が少なく、横山大観に比べると知名度は劣るが、後年、大観をして「春草の方がずっと上手い」と言わしめたほどの画力に加え、日本画にさまざまな斬新的画法を取り入れた明治の画聖の一人である。

userdisk.webry.biglobe.ne.jp 石川啄木 (いしかわ たくぼく、歌人) (1886年(明治19)2月20日 – 1912年(明治45)4月13日)

貧乏と孤独のなかで苦しみながら、新しい国民的発想の文学をつくり、後社会主義者と自覚した。といいつつ、女遊びの激しかった人でも有名。

www.minakata.org 南方熊楠(みなかた くまぐす、博物学者/生物学者/民俗学者) (1867年5月18日(慶応3年4月15日) – 1941年(昭和16年)12月29日)

頭も良いが、超変人。熊楠の論文は現在でも学術誌として名高い『ネイチャー』誌などに次から次へと掲載され、当時その名は世界に知れ渡った。 また、私生活ではロンドンにて研究中、その身を潜めていた孫文と出会い、たちまち意気投合し議論を交わすなどしていた。

菌類学者としては粘菌の研究で知られ、昭和天皇に進講をしたこともある。 昭和天皇は熊楠がいたくお気に入りで、熊楠がなくなった後に和歌山を訪れた際には熊楠を偲ぶ歌を詠まれた。

blogimgs.sina.tw 大谷光端(おおたに こうずい、浄土真宗の僧/探検家) (1876年(明治9年)12月27日 – 1948年(昭和23年)10月5日)

西本願寺第22世。1902年(明治35年)に仏教の研究を主目的とした「大谷探検隊」を組織。第1次(1902年〜04年)、第2次(1908年〜09年)、第3次(1910年〜14年)の3回、探検隊を派遣、第一次探検隊には自らも参加した。

ちなみに異色の建築で知られる築地本願寺を設計した伊東忠太とは、第1次探検中に中国で出会い、以後2人の関係は終生続いた。

https://matome.naver.jp/odai/2157818836330797501/2157864447677775603 北白川宮成久(きたしらかわのみや なるひさおう、旧皇族) (1887年(明治20年)4月18日 – 1923年(大正12年)4月1日)

北白川宮能久親王の第三王子で母は富子妃。 陸軍大佐となったが、35歳で留学先のパリで交通事故に遭い死亡。

前出の北白川宮拡子様の実兄。きれいな瞳が互いによく似ていらっしゃいます。

cdn-ak.f.st-hatena.com 岡田時彦(おかだ ときひこ、俳優) (明治36年(1903年)2月18日 – 昭和9年(1934年)1月16日)

大正・昭和初期の俳優。無声映画時代を代表する二枚目俳優。

娘は昭和を代表する大女優の岡田茉莉子

www.fsight.jp 藤原義江 (1898年(明治31年)12月5日 – 1976年(昭和51年)3月22日)

愛称は「吾等のテナー」。 父親がスコットランド人で母親が日本人。 戦前から戦後にかけて活躍した世界的オペラ歌手であり、藤原歌劇団の創設者。

写真について: 撮影年は不詳、撮影者は写真家の宮武東洋

blogimg.goo.ne.jp 有島武郎(ありしま たけお、小説家) (1878年(明治11年)3月4日 – 1923年(大正12年)6月9日)

内村鑑三の弟子、作家。代表作に『カインの末裔』『或る女』や、評論『惜みなく愛は奪ふ』がある。 父もイケメンなら息子もイケメン。長男は俳優の森雅之である。

pds.exblog.jp 森雅之 (もり まさゆき、俳優) (1911年1月13日 – 1973年10月7日)

前出の文豪、有島武郎の息子。 舞台出身の名優として、黒澤明監督と溝口健二監督の国際映画祭受賞作品(『羅生門』、『雨月物語』)で主役を務め、また、成瀬巳喜男監督の『浮雲』での演技によって第1回のキネマ旬報主演男優賞を受賞した。日本映画黄金期を代表する名優の一人に数えられている。

cdn-ak.f.st-hatena.com 中原中也 (なかはら ちゅうや、詩人/歌人/翻訳家) (1907年(明治40年)4月29日 – 1937年(昭和12年)10月22日)

1907年4月29日、山口県に医師の子として生まれる。神童だったゆえ家業の病院を継ぐことを期待されるも、弟の死をきっかけに文学にのめりこむ。

東京外国語学校専修科卒業後、既成の価値や秩序を壊す芸術運動「ダダイズム」に若くして傾倒。結核性脳膜炎のため夭折したが、350篇以上もの詩を残し、一部は、中也自身が編纂した詩集『山羊の歌』、『在りし日の歌』に収録されている。訳詩では『ランボオ詩集』を出したことで有名。

simplegreenlife.up.n.seesaa.net 佐伯祐三 (さえき ゆうぞう、洋画家) (1898年4月28日 – 1928年8月16日)

大正~昭和初期に活躍した洋画家。

大阪中津の名刹光徳寺の次男として生まれる。 現代の東京芸術大学の前身である東京美術学校を卒業した後、単身パリに渡り、画家としての短い活動期間の大部分をパリで過ごす。二度目の渡仏時、満三十歳の時にフランスで客死。

upload.wikimedia.org 土方 歳三 (幕臣、新撰組副長) 天保6年5月5日(1835年5月31日)- 明治2年5月11日(1869年6月20日)

東京・多摩郡石田村(現東京都日野市石田)生まれ。幕末期の幕臣、新選組副長。諱は義豊、雅号は豊玉、家紋は左三つ巴。新選組時代には、鬼の副長と称され隊士たちから恐れられた。明治2年、蝦夷箱館・五稜郭にて戦死。

愛刀は会津藩主・松平容保から下賜されたと伝えられる、和泉守兼定。

blog-imgs-27-origin.fc2.com 芥川 龍之介(あくたがわ りゅうのすけ、小説家) (1892年(明治25年)3月1日 – 1927年(昭和2年)7月24日)

東京帝大英文科卒。在学中から創作を始め、短編「鼻」が夏目漱石の激賞を受ける。その作品の多くは短編で、「芋粥」「藪の中」「地獄変」「歯車」など、『今昔物語集』『宇治拾遺物語』といった古典から題材をとったものが多い。「蜘蛛の糸」「杜子春」といった児童向けの作品も書いている。

余談だが、完全なる「猫派」。犬は大嫌いだったらしい。

upload.wikimedia.org 夏目漱石 (なつめ そうせき、小説家/評論家/英文学者) 1867年2月9日(慶応3年1月5日) – 1916年(大正5年)12月9日)

本名、金之助(きんのすけ)。 大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学ぶ。帝国大学(現在の東京大学)卒業後、子規の故郷松山で教師などを務めた後、イギリスへ官費留学。 イギリス留学中に神経衰弱となり、帰国後、気がまぎれるようにと高浜虚子(子規の弟子で俳人)に勧められ、「吾輩は猫である」を執筆し、雑誌『ホトトギス』にて発表した。「坊っちゃん」「倫敦塔」などの作品が有名。

upload.wikimedia.org 太宰 治(だざい おさむ、作家) (1909年〈明治42年〉6月19日 – 1948年〈昭和23年〉6月13日)

1909年、青森の大地主の家の6男として生まれる。 学生のころ(最終学歴は東大中退)より作家を志し、芥川龍之介などの作品に影響を受け、1936年(昭和11年)に最初の作品集『晩年』を刊行した。 生来の不安定さからか4度の自殺を試み、5度目にあたる1948年(昭和23年)に山崎富栄(美女編に載せてあります)と共に玉川上水で入水自殺を完遂。

主な作品に『走れメロス』『津軽』『お伽草紙』『斜陽』『人間失格』。その作風から坂口安吾、織田作之助、石川淳らとともに新戯作派、無頼派と称された。

buaiso.com 白洲 次郎(しらす じろう、実業家) (1902年2月17日 – 1985年11月28日)

中学卒業後の大正十二年にケンブリッジ大学に留学。帰国後、白洲正子と結婚。戦後は吉田茂の右腕となり、GHQからは「従順ならざる唯一の日本人」 と呼ばれた。

rr.img.naver.jp 飯沼正明 (いいぬま まさあき、 冒険飛行家) (1912年8月2日 – 1941年12月11日)

所沢陸軍飛行学校を卒業後、朝日新聞社に入社。1937年、26歳の時に純国産機「神風号」で塚越賢爾機関士(群馬県出身)と共に東京-ロンドン間を94時間17分56 秒で飛行、世界新記録を樹立した。当時の流行語「花の26歳」とは飯沼正明、横綱双葉山、俳優上原謙のことを指したそう。

i.pinimg.com 萩原朔太郎 (はぎわら さくたろう、詩人) (1886年(明治19年)11月1日 – 1942年(昭和17年)5月11日)

大正時代に近代詩の新しい地平を拓き「日本近代詩の父」と称される。1917年2月刊行の処女詩集『月に吠える』が代表作で、現在青空文庫でも読める。

stat.ameba.jp 伊藤道郎 (いとう みちお、ダンサー/振付師) (1893年4月14日 – 1961年11月6日)

東京生まれ。伊藤為吉の長男。第二次世界大戦前は海外で活躍、英国ではホルストの『日本組曲 Japanese Suite』の作曲を助けた。また詩人イェーツと共に日本の能を研究し、イェーツの代表作である戯曲「鷹の井戸」の完成に貢献した。

upload.wikimedia.org 両國 梶之助(力士) (1892年3月18日 – 1960年8月10日)

颯爽とした風貌で人気を博した大正時代の力士。 最高位は東関脇、愛称は出羽海部屋三羽烏。

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ガチで美人過ぎる幕末女性 ベスト17(写真あり) | 幕末ガイド 幕末というと、やけに昔のことで、女性はお歯黒で引眉(眉を剃る)でなんか怖いってイメージがありませんか?髪型も化粧も現代とはぜんぜん違う。確かにそうなんです。でも、現代でもガチで通用する美人さんは確かにいた。そんなガチ美人の写真を集めてみました。 【写真あり】現代にも通用する幕末イケメンをランキングしてみた【41位~1位】 | 幕末ガイド いまから約150年前の幕末。土方歳三や龍馬らが生きていた時代にもやっぱりイケメンはいた。メジャーどころからマイナーな人物まで写真付きで完全ランキング化! https://matome.naver.jp/odai/2157818836330797501 SophiaESL 2020年05月01日 SPONSORED LINK
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